俺の歌を聴け

はじめまして、深江健太と申します。
今回はこれからお会いするかもしれない方々に自分のことを知っていただくために筆を取りました。
一方でこれはあくまでも極めて個人的なものであり、特に世に広めたいものでもなければ、何かタメになるものでもありません。

こういった形で長い文章を書くのは初めてなので緊張しますが、せっかくの機会なので自分の半生をきちんと振り返ってみようと思います。
たいして面白くはならないかもしれませんが、できる限りのことはやってみます。

私は何者か

私は何者かというと、デザイナーです。
デザイナーですと言うことをなんだか小っ恥ずかしく思っていた時期もありましたが、かれこれ10年近く携わっているのでもうそんな可愛いことも言っていられません。
学生時代にグラフィックデザイン事務所にてインターンを経験したのち、新卒でWeb制作会社に入社、Webデザインやフロントエンド開発に従事しました。
その後はクリエイティブスタジオ1社を経てフリーランスとなり、徐々にソフトウェアのデザイン、UI/UXと呼ばれるような領域に染み出します。
そうこうしているうちにフリーランス時代のクライアントであった医療系のスタートアップに入社し、デザインマネージャーという役割でデザインシステムの構築やVI策定、メンバーのマネジメントなどを経験しました。
現在は金融機関向けのソフトウェアを提供するスタートアップにてデザイナーとプロダクトマネージャーとしていろんな穴を埋めています。

デザインとの出会い

そもそもデザインというものを最初に意識したのは、大学でのドイツ退廃芸術に関する講義がきっかけでした。
私は美大やデザイン系の学科出身ではなく、普通の総合大学にて西洋の哲学や思想を学んでいました。
学んでいたといっても3年次までは身の入らない、それこそ退廃的な大学生活を送っており、単位こそ取れどそこまで真摯には向き合ってはいませんでした。
そんな中、前述の講義にて19世紀から20世紀にかけてのドイツポスターのデザインが紹介され、こんなポスターがあったのか、なんかかっこいいなと思ったのがデザインへの意識の芽生えだったと思います。
講義後すぐになけなしのお金でドイツの近代ポスターのカタログを取り寄せ、それまではソファとテーブル、小さなオーディオ機器しかなかった部屋の片隅に、インターネットで拾ったドイツポスターの画像をコンビニで印刷し、額縁に入れ誇らしげに飾っていたことを覚えています。

その後、以前から英語でコミュニケーションが取れるようになりたいと思っていたため、休学してドイツではなくアメリカに渡ることを決意します。
渡米準備期間中は、ネット掲示板で知り合ったネイティブの友人らとひたすらSkypeで英会話をして過ごしました。
さらには彼らの家に居候させてもらう約束まで取り付け、それだけを頼りに、たった1,500ドルを握りしめ飛行機に乗り込みました。
現地では特に学校に通うわけでもなく、友人と2時間歩いてカフェに行き10分ほどコーヒーを飲んでまた2時間歩いて帰ったり、せっかくアメリカにいるのに1日中部屋に篭って本を読んだり、夜中にボロボロのゲレンデで超ジャンクなChicken Over Riceを食べに行ったりと、ここでもまた退廃的な生活を送ります。
学生ビザもお金もなかったため3ヶ月ほどしか滞在できませんでしたが、ModestoとQueensで過ごした日々は思い出深いものがあり、いずれまたそれについて書くかもしれません。

短いような長いような3ヶ月が終わり、帰国はしましたが、休学期間はまだ9ヶ月残っていたため放浪生活を続けました。
アメリカから連れて帰った友人と実家でゆっくり過ごしたり、北海道の富良野や旧友がいる会津に滞在したり、決して自分探しをしているわけではないと自らに言い聞かせながら、気ままに過ごしました。
しかし、休学から半年後、ついにお金も行く当てもなくなり、しぶしぶ大学がある町へ帰ります。
さて何をしようか、僕がいない間、同期のみんなはインターンとかいうものをやっていたらしい、じゃあ何のインターンをしようか、そうだデザインなんかいいな、あのドイツのポスターみたいなのを作るのなんか素敵じゃないか、というようなことを考えながら、インターネットで調べていると表参道のグラフィックデザイン事務所がインターンを募集しているのを見つけました。
私はすぐに即席のポートフォリオ的な何かを作り、履歴書と一緒に送付しました。
今思うとこりゃだめだろうというものを送りつけていた気がしますが、なんとか審査を通過し、デザイン事務所でのインターン生活が始まります。

事務所では雑用をしながら、インターン生主催のフリーペーパーのデザインをしたり、時々実務のアシスタントをしたりして過ごしました。
お芋味のバターのパッケージ裏にあるスペック表示の文字詰め、が生まれて初めてのデザインの仕事だったと思います。
憧れていたポスターの仕事をお手伝いするほどのレベルには至りませんでしたが、デザインの基礎を学びながら初めて触るデザインツールで何かしらモノを作り上げていくことは純粋に楽しかった気がします。

クソスタート

気づけば卒業間際ということで、2月からようやく就職活動なるものを始めます。
その年退任が決まっていたゼミの教授に卒論のお礼をしに行くと、どういうところに行くつもりか、と聞かれました。
デザイン系に行こうかと考えていると答えると、教授はこう言いました。
「一見離れているように見えるけど、最後は君がここで学んできたことにつながるはず。がんばって。」

就職先についてはインターン先に入社をお願いをすることも考えましたが、どうせならと何社かにポートフォリオを送付しました。
しかし、いっちょ噛みのデザインスキルしかない自分ごとき、ことごとく書類で落とされます。
落胆はしつつも、まあそんなに甘くないかと思っていたところ、1社ほどWeb制作会社の書類選考を通過します。
のちに私の第2のボスとなる取締役と面談し、晴れて内定をいただき入社することになりました。

入社後になぜ受かったのか聞いたところ、こう返ってきました。
「デザインはクソだけど、そこそこ頭が良さそうだったから。そういう存在は当社的には珍しく貴重。」
なるほど、絶対許さねえ、と思ったことだけは記憶に新しいです。

実は小学生の頃にホームページを作ることが流行り、自分でもコードを書いてWebサイトを作ったことがあったため、自然な流れでデザインからフロントエンドの実装までをカバーするようになりました。
とはいっても、モダンなフロントエンド開発をしていたわけではなく、いわゆるHTMLとCSS、そして少しのjQueryが書けるようになった程度です。
それでも、自分のデザインを動く形にしていく過程はまさにモノを作っている感覚があり、熱中して業務に取り組んでいた気がします。

狂気との邂逅

2社目は業界では有名だったクリエイティブスタジオに入社することができました。
しかし、どうしても自分には肌が合わず、一身上の都合という体の良い言い訳を使って数ヶ月で逃げ出します。
ただ、ここで出会った私の第3のボスはデザインに取り憑かれた狂気そのものであり、期間は短くとも最も影響を受けたデザイナーに違いありません。
自分にはそこまでできないと飛び出してはしまいましたが、今でもことあるごとに頭の中のそのボスが僕にこう語りかけてきます。
「健太、本当にそのクオリティで良いと自分で思ってる?」

UI/UXと呼ばれるもの

逃亡したは良いが何せ憧れて入った会社だったので、次に行きたいと思えるところがありませんでした。
とはいえ、背に腹は変えられないので、50回くらいの分割払いでMacを新調し、とりあえずフリーランスを始めます。
よくはわからないが何やらエージェントというものがあるらしいと知り、登録してみました。
すると、事業会社のソフトウェアデザインのお仕事をいくつか紹介されました。
なんとなく今までやってきたこととは違う気がするけど、なんとかなるだろうと数社のお仕事を業務委託で受け始めます。

今でいうコミュニケーションデザインを主戦場としていた自分にとっては、より論理的な思考が必要になるソフトウェアのデザインは畑違いではあったものの、比較的スムーズに移行できた方だと思います。
おそらく自分が持って生まれた指向性は論理寄りという認識と、デザインはクソだけど、そこそこ頭が良さそう、という第2のボス言葉もよぎり、もしかしたら自分にはこっちのほうが合っているのではないかと思い始めます。

2年近くフリーランスを続けた後、顧客の1つだった医療系のスタートアップからオファーをもらいました。
否応なくドメイン的に社会的価値は高いこと、エンジニアやPdMなど優秀な方々が揃っており成長機会が多分にあったこと、組織の中でデザイン基盤を作りうまく作用させることに興味が湧き始めたこと、そして結婚し子どももできたタイミングだったことなど、いろいろな点を加味し、最終的に入社することに決めました。

当時すでに比較的規模の大きいスタートアップでしたが、デザイナーとしては1人目社員です。
入社後は業務委託のデザイナーの方々と協業しながら、各プロダクトのデザインを横断して担当しつつ、デザインシステムの構築やVI策定などを推進しました。
そしてここでスクラム開発というものに初めて触れることになります。
それが何なのかよくわかっていなかった自分としては、ハイレベルなメンバーに揉まれながら初めてのスクラムに入れたのはとても良い経験でした。

叱咤激励と心頭滅却

そのスタートアップでやりたかったことは一定達成し、自分が東京の奥のほうに引っ越したこともあり退職します。

転職活動中、知人の紹介で自分のキャリアからすると大企業に属する会社の面接を受けました。
予想だにせず、社長自らが面接官として現れたのですが、私は経歴として何の気なしにここまで書いてきたような話をしました。
それを聞いてその方はこう言いました。
「君の話にはビジョンがない。何か決めたことに対してのストーリーじゃないからつまらない。決めてやり切る。俺はたしかにそこにいた、という旗を立てないとダメだ。」
私は、なんだこいつ、ムカつくな、と思ってしまいました。
するとその方はこう続けます。
「君、今『なんだこいつ。ムカつくな。』と思ったでしょう。実は僕も昔いた会社の社長に同じことを言われて、同じことを思った。君が当時の僕と同じ目をしていたから言ってみたんだ。」
私は怒りなど忘れ、1本取られたというような心境になり、心から感謝を述べて面接を終えました。
その後、その会社からは内定をいただきましたが、その時に言われた、決めたことをやり切れ、という言葉がなぜかその時の自分にはすごく刺さってしまい、その結果、この会社は自分で決めたわけではない、やり切る覚悟が足りないと断りを入れました。

その際面接してくださった社長は僕のことなど覚えていないでしょうし、同じ目をしているというのも発破をかけるための方便だったかもしれません。
それでも、自分にとっては芯まで響く重みのある言葉として今でも心に残っています。

マンションの1室、はじまり

とはいっても何をするのか決めてやり切るということは、自分にとってなかなか難しいことです。
何かスキルや知識を得るために毎日決めたことを継続するといったことであれば得意なほうですが、そもそも何がしたいんだというところはそう簡単に見えてきません。
いったんはフリーランスに戻ることにし、自分のスキルと経験が活きそうな初期フェーズのスタートアップに絞って数社のお手伝いをし始めました。

そのうち1社のキックオフMTG、ぜひオフィスに来てくださいと言われ、東京の奥から2時間かけて渋谷のオフィスに向かいました。
13階に上がりドアを開けると、そこは本当に普通のマンションの1室で、2、3名がPCの前に座りカタカタやっています。
Theって感じだなあ、と思いつつも、そこにはここからはじまっていくという空気が確かに流れていたことを覚えています。

代表は私より2つほど上の金融機関出身の起業家で、一見派手さこそありませんでしたが、金融というものへの多大な情熱や1本筋の通った戦略、気づいたら引き込まれてしまうプレゼンテーション、仕事も遊びもやり切る姿勢などを見て、こいつは今まで会ってきた奴とはちょっと違う、ただの優秀な奴ではないし今の自分じゃ勝てないと思ってしまいました。

一筋縄じゃいかない魅力を持つ代表に惹かれ集まってくるメンバーも、彼に惹かれただけあってそれぞれに面白い面々が揃っています。
ここにその魅力を書き始めると1人で5,000文字くらい行ってしまいそうなので、またの機会に回しますが、そんな彼らに触れる中で、いつしか自分もその中にいれたら、俺はたしかにそこにいたと言えたならどんな気持ちになるだろうと考え始めました。

その後業務委託として手伝っていく中でも、事業面の成長スピードや深化においてその会社は頭ひとつ抜けた存在であり、自分のコミットメント量も徐々に増えていきました。
また、最初は少し距離のあった金融というものに関しても、だんだんとその構造や面白みに近づいていく感覚があり、デザイナーとしてもレガシーな領域のスタンダードを塗り替えていくということに惹かれていきました。
気づくと外部の人間であるのにも関わらず、ミッションやビジョンを決める会にも参加し、移転前のオフィスでの最後の飲み会にもさも社員のように参加していました。

そして、移転後のオフィスに出向いた際、代表から正式に入社のオファーをもらいました。
「条件は書きましたが、赤ペンも持ってきました。これで好きに書き換えてください。」
代表はそう言いながらオファーレターと赤ペンを私に渡します。
憎いことするなあと思いながら、少し考えさせてくれとそれを持ち帰りました。

その週、丸1日三鷹の喫茶店に籠り、その会社に入社するかどうか考えました。
妻は私の仕事にはいっさい口を出してはこないタイプで、あなたが思うように、と言っています。
子どもたちは私の勤め先になど興味すらありません。
私は今までの振り返りであったり、金銭面の計画、今後のキャリアの展望などをノートに書き出しました。
当時の私は、ありがたいことに一定数の定常的なお仕事をいただいており、個人的な資産形成のためであれば、そのまま続けていくほうが確実でした。
また、キャリアについても、どこかの会社でCDO的なものを名乗らせてもらい、それっぽい箔をつけていくということもおそらくできたと思います。

でも、なんかそれは違うなと思ってしまいました。
そうじゃねえだろと。
それなら自分が健康でさえあればいつだって選択できる、でも彼らと一緒に偉大なものを作り上げ、俺はたしかにそこにいたと旗を立てるには今この瞬間しかない、そして彼らと自分ならそれができるんじゃないか。
そう思ってしまいました。

現在

そういうわけで今、私は金融機関向けに法人の審査業務を手助けするソフトウェアを作っています。
なかなか難易度は高いですが、泥臭く、地を這いつくばりながらチームのみんなと少しずつ前に進んでいます。
キックオフの時には1社もなかった導入実績が今では50社近くになっています。
これは誇らしいことではありますが、まだまだこれからです。
いつか、自分でやり切ったと思える日が来たら、次はバンドマンにでもなろうと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。
私はこういう人間です。

2023年12月21日

謝辞

最初のボス

右も左もわからない美大生でもない自分を快く迎え入れ、デザインの基礎を教えてくださったこと、深く感謝しています。

新卒入社の制作会社のみなさん

社会を舐め腐った自分に納期やクオリティを守ることの大切さを説き、社会人としての幹を作ってくださった第2のボス、生意気なわりに地肩のない自分に優しくアドバイスをくれ見守ってくださったデザイナーの先輩の方々、体系だったフォローもできていないのに慕ってくれた後輩たち、あなた方のおかげでなんとか今でもやれています。あと業務ではいっさい関わりがないのになぜか可愛がってくれたk2さん、あの世で待っていてください。またくだらない話でもしましょう。

第3のボス

あれからバツが悪くご挨拶できておらずすみません。あなたには遠く及びはしないですが、私ももがけるだけもがいています。弟子だったと言えるほどご一緒はできませんでしたが、いつかまたお礼を言いに行かせてください。

医療系スタートアップのみなさん

関わった時間も長く、触れ合った人数も多かったので個別には書ききれませんが、特にモバイルアプリチームのみなさんにはスクラムというものを教えていただいたこと、とても感謝しています。またプロダクトの作り方とその姿勢という面ではCPOから多大な影響受けました。今後とも仲良くしてください。あとCTO、そのうち酒を喰らいに行きましょう。

アシスタントさん

日々成長に驚きながら、支えていただいていることに感謝しています。今後ともよろしくお願いします。

現在の会社のみなさん

お礼はやり切ってから言います。また明日会いましょう。

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